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水間徹雄・建築巡礼の旅

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2021年 08月 06日

■お知らせ

※「水間徹雄・建築巡礼の旅」は、2020年3月25日をもってエキサイトブログからFC2ブログへ引っ越しします。

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# by mizuma-kj | 2021-08-06 12:01 | Comments(0)
2017年 05月 04日

茶室巡礼の旅-4/金地院八窓席-2

金地院方丈北側の書院に接続して、重要文化財三畳台目の茶室「八窓席」があります。崇伝の依頼により小堀遠州が創建したものとされてきましたが、昭和26(1951)の修理の際の調査で、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明しました。中村昌生氏は、「遠州の代表的な草庵茶室というべき伏見屋敷の四畳台目などに比べ、この茶室の構成や意匠が洗練と纏まりに欠けているのは、そのためであろう。」と言われています。「本光国師日記」によれば、寛永5(1628)までには完成していました。


金地院八窓席平面図/金地院八窓席で薄茶を点てる之図

壁面の中央寄りに開けられた躙口から入ることによって、床へ向かう「貴人」の動線と下座へ向かう「相伴」の動線が明確になり、茶席の空間の二分化を促しています。下図の客配置は、今風の平等スタイルですが、創建当初は、南面の柱間一杯に襖2 枚を立てた貴人口から将軍が入り、崇伝が亭主を務める配置でした。

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縁とにじり口/床より躙口の側を見る

躙口の外に濡縁が付き、縁からにじり入る形式が採用されています。また普通躙口は隅に開けられ、侘びた、慎ましやかな入り方になるのですが、壁面の中央寄りに開け、「押し出しの強い」入り方で、武家風な好みを示しています。この2点が金地院八窓席の特徴です。縁は敷居上端から6寸低く張られています。

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床と点前座

墨蹟窓と中柱付近

東側の南に床、北に台目畳の点前座を並べています。客座に対して、床と点前座を並べる間取りは遠州好みです。点前座背後の東面は火灯口を設けて茶道口としています。点前座には椿の中柱を立て、袖壁を付けています。右側の床柱はくぬぎ皮付、書院境との間に1.4寸の羽目板を入れて独立させています。相手柱は赤松皮付で、床框は黒塗です。こうした取り合わせも遠州好みをよく示しています。菰天井の竹の竿縁は床指しになっています。

床の左脇壁には墨蹟窓をあけて、点前座背後の窓から明かりが床にはいるようになっています。中柱の袖壁にも下地窓をあけています。この窓から二重棚が透けて見えます。中柱が平天井と掛込天井との境の丸太から僅かに外れているので、点前座の勝手付の壁にも柱を立てています。

北面の窓は、三つの連子窓と下地窓が一つあります。連子窓が多く、しかも大きいです。躙口上も、点前座背後も、連子窓は柱間一杯にあけられています。つまり待庵と異なり、部屋が明るいということです。

金地院茶室は、窓席と称していますが、窓は西面の躙口上に1 つ、北面の壁に3 つで、床脇の墨跡窓、袖壁の下地窓を含めても窓は6 つです。下の写真には躙口上の窓以外全部現れています。

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六畳の間

六畳の間は、おそらく勝手の間としてつくられたもので、床の棚は、茶室の床の背後の空間を利用して造られたものです。

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# by mizuma-kj | 2017-05-04 17:08 | 茶室 | Comments(0)
2017年 04月 28日

茶室巡礼の旅-4/金地院八窓席-1

金地院八窓席は京都三名席の一つで(他の2席は、大徳寺・孤篷庵の忘筌席、曼殊院の八窓軒)、南禅寺塔頭金地院の中にあります。金地院は応永年間(13941428)大業徳基禅師が足利義持の帰依を得て、京都北山に開創した禅宗の寺院で、慶長初年(1596)、崇伝によって南禅寺の現地に移されました。崇伝は単なる禅僧ではなく、家康の信任深く、徳川幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、「黒衣の宰相」の異名を取っています。下の地図を見ても分かる通り、塔頭寺院とは言え、その寺観は独立大寺院並みで、 僧録司が置かれ、江戸時代を通じて五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ事実上の最高機関とされ、10万石の格式を持ち寺大名とも呼ばれました。また家康の遺言による3つの東照宮(他の二つは、日光と久能山)のうちの一つが寺内にあります。家康を祀る東照宮を別途新しく創建せず、南禅寺塔頭の中に設けたのは、同寺が日本最初の勅願禅寺で、京都五山,鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、なんとしても徳川の楔を京都朝廷に打ち込む為と思われます。


南禅寺周辺地図

金地院へ行くベストコースは、地下鉄東西線蹴上駅で下車し、ねじりまんぽ(蹴上トンネル)を通って何有荘(かいうそう)門の前を過ぎ、見学受付のある総門から入るのがベストです。

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ねじりまんぽ(蹴上トンネル)

上からの大きな負荷に耐えられるよう、ねじったように斜めにレンガを積んだ歩行者用トンネルです。「雄観奇想」「陽気発所」と刻まれた扁額は粟田焼きで、揮毫は第三代京都府知事北垣国道です。

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何有荘(かいうそう)門前の通り/金地院総門前の通り

何有荘は、植治作庭の庭園のある南禅寺界隈別荘の一つで、現在の所有者は、オラクル共同創業者ラリー・エリソンです。京都工芸繊維大学へ寄贈・移築された武田五一設計の洋館がありました。

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金地院全景図

寛永3(1626)崇伝は後水尾天皇より円照本光国師の号を授けられ、金地院の再興が始まります。崇伝が小堀遠州に数寄屋及び、鎖の間の指図と地形縄張りを依頼したことがわかっています。

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開山堂の方から眺める方丈/方丈の西側にある、将軍御成御殿の次の間,富貴間,上段

慶長16(1611)、 将軍家光を迎えるための御成御殿として、伏見桃山城の遺構を移建したと伝えられています。ただ、近年の研究によれば、寛永3年(1626)の新金地院作事の際に新造されたとみられています。金地院方丈は、御殿という世俗的空間と、仏事の宗教的空間の二つの要素から構成された、特殊な性格を持つ建物です。建物に南面して鶴亀の庭を設け、山の峰々と深山幽谷の景色を模した大刈り込みを介して東照宮を設け、徳川家の未来永劫の繁栄を祈願し、東照宮を遥拝する装置を小堀遠州は造りました。江戸期には「御祈祷殿」とも呼ばれています。

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鶴亀の庭全景/正面

小堀遠州作と唯一記録に残っている枯山水の名庭です。白砂は宝船と海洋を象徴し、東照宮の遥拝石である平面石の右が鶴島、左が亀島です。背後の刈り込みは、蓬莱山を表し、前面の白砂と対比させて、徳川家の未来永劫の繁栄を象徴させています。普通枯山水の庭は、石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式ですが、鶴亀の庭の枯山水は、石や砂と背後の豊饒な緑から成り立っています。「きれいさび」を含め、遠州は本来性格の違うものを組み合わせ、新しい造形を造りあげるのに長けていました。

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東照宮拝殿正面/拝殿・石の間・本殿

狩野探幽筆「鳴龍/佐光起画・青蓮院尊純法親王書、「三十六歌仙」額

寛永5(1693)堀遠州の作で、京都に現存する唯一の権現造りの神社です。徳川家康の遺言で建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀っています。拝殿は総漆塗り、石の間・本殿は軸部を丹で、壁や扉は白・黄・緑といった極彩色で彩られています。また拝殿の天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれており、その欄間には佐光起画・青蓮院尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。

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開山堂/崇伝肖像彫刻

崇伝の塔所で、後水尾天皇の勅額を掲ています。正面に崇伝の肖像彫刻、左右には十六羅漢像が安置されています。

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# by mizuma-kj | 2017-04-28 11:35 | 茶室 | Comments(0)
2017年 04月 18日

吉田鉄郎・旧宇治山田郵便局電話分室

吉田鉄郎設計の旧宇治山田郵便局電話分室は、伊勢神宮下宮前バス亭広場の県道22号線を挟んで真向かいに建っています。大正12(1923)吉田29歳、明治村に移築された宇治山田郵便局(明治42年完成)の分室として隣地に増築されました。工事は北川幸吉(現在名古屋市に本社のある北川組)が個人で請け負いました。その後自動交換機導入などにより旧電電公社伊勢健康管理所となり、現在は、旧京都中央電話局西陣分局(設計岩元禄/下記写真参照)、旧京都中央電話局上分局(設計吉田鉄郎/下記写真参照)等と共に「NTT西日本文化遺産」に認定され、フレンチレストラン「ボン・ヴィヴァン」と「ダンデライオン・チョコレート」が併設されているギャラリー「うみやまあひだミュゼ」にサブリースされています。吉田設計の東京,大阪の両中央郵便局は、東京は外壁を残して建て替え、大阪は解体されてしまいましたが、同じ吉田設計で、両者作風がよく似ている旧宇治山田郵便局電話分室と旧京都中央電話局新上分局は、現在も現役の建築として使用されています。


旧宇治山田郵便局電話分室航空写真

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宇治山田郵便局電話分室外観スケッチ(吉田鉄郎 筆)/明治村の宇治山田郵便局

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1階平面図

平屋建て延べ床面積550㎡、レンガ造りモルタル塗りの建物です。旧宇治山田郵便局電話分室が建築された大正12(1923)9月関東大震災があり、その後レンガ造りの建物は造られなくなります。                                                                                                 

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北側外観

全体的には北欧・ドイツ建築の影響を色濃く残した建築で、外壁前面に連続する背の高い窓は、授眼蔵図書館(下記参照)からの発展形、隣接する宇治山田郵便局のファサードに合わせたものでしょうか?各所に曲線を取り入れた表現があり、変化のある赤い瓦屋根は軒先に反りを付けるとともに強い勾配を持ち、その頂部に突出した木鼻めいた飾りを抱く家型埴輪をしのばせる屋根は独特のリズム感を生み出しています。

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伊勢神宮下宮側外観

複雑な屋根の形態のリズムがおもしろい。

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中庭外観

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授眼蔵図書館(1919年)/旧宇治山田郵便局電話分室(1923年)

旧京都中央電話局新上分局(1924/以上設計吉田鉄郎)/旧京都中央電話局西陣分局(1921/設計岩元禄)

吉田鉄郎の故郷富山県福野の浄土真宗本願寺派西方寺に授眼蔵図書館があります。大正8(1919)の竣工で、吉田大学時代の設計と言われており、彼の設計に疑義を唱える人もいますが、旧宇治山田郵便局電話分室を見ると、授眼蔵図書館の発展形が、同電話分室であり、さらなる完成形が旧京都中央電話局新上分局なのです。

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局舎の解説文に、「神都伊勢市を意識した」等の文言が出てきますが、私には伊勢神宮下宮前に立地していることでのこじ付けとしか思われません。むしろアール・ヌーボーアール・デコ表現主義など世紀末芸術から影響を受けた「大正ロマン」の建築と言うべきです。また「後に官庁建築の基調をなしたデザインといわれています。」等とも書かれていますが、岩元禄の旧京都中央電話局西陣分局とともに「後の官庁建築の基調をなさなかったデザイン」と言うべきでしょう。どうも吉田鉄郎と言うと、東京,大阪の両中央郵便局が言挙げされ、逓信建築の大看板、モダニズム建築の旗手と言われがちですが、井上章一氏が、彼の資質はモダニズム建築には向いておらず、若いころからのロマンティシズムで、おおらかに設計をつづける途は、なかったのか。と書いているように、旧宇治山田郵便局電話分室や旧京都中央電話局新上分局の方が吉田の資質にあったデザインで、東京,大阪の両中央郵便局の方は、彼の建築家としての腕の良さを証明する建築なのです。
















































# by mizuma-kj | 2017-04-18 15:42 | 吉田鉄郎 | Comments(0)
2016年 10月 30日

吉田鉄郎の故郷富山県福野

今年は昭和31(1956)98日に 吉田鉄郎が62歳で亡くなってから60周年目にあたります。1029日から1126日まで日本大学理工学部お茶の水校舎1階ロビーにて「吉田鉄郎没後六十周年記念展」が開催されています。私が大学時代に教わった、近江栄,小林美夫,小谷喬之助の三先生は、吉田が昭和21(1946)から日本大学教授として後進の指導にあたった時代の教え子でした。宮川英二先生は、吉田が顧問を務めていた鹿島建設の設計部から来られた方でした。又吉田は私の故郷富山県出身の大建築家です。そこで富山での中学の同窓会の帰途、1023日に吉田鉄郎の故郷福野を訪ねてみることにしました。ラ・ショー・ド・フォンを含め、大建築家の故郷を訪ねてみると、その建築家の出現が偶然ではなく、必然であることがよく分かります。

吉田鉄郎没後六十周年記念展チラシ

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福野吉田鉄郎関連地図

吉田鉄郎は明治27(1894)富山県東砺波郡福野町(現南砺市)に五藤寛平の三男として生まれました。JRの最寄りの駅「福野駅」は高岡から城端線で35分の所にあり、鉄郎は城端線の汽車に乗って旧制高岡中学(現高岡高校)へ通いました。福野文化創造センターヘリオス2階には南砺市福野図書館があり、吉田鉄郎関係図書・資料が保管されています。富山県立農学校(現南砺福野高校)初代校舎厳浄閣(国指定重要文化財)玄関ホールの壁には、鉄郎が第四高等学校在学中に描いた農学校の鳥瞰図が掲げられています。同校は五藤家との関係が深く、農学校で長兄寛平(父の名を襲名)が英語の講師をしていたことがあり、次兄健三は農学校を卒業した後、東京美術学校を卒業、富山県出身者として最初に文展に入選した画家となります。又寺田寅彦の甥別役亮が同校の教師をしていたことがあり、彼と長兄寛平との縁で五藤家と寺田寅彦の間には深い関係が結ばれます。鉄郎は東京帝国大学工科大学建築学科を受験しますが不合格となります。しかし東京帝国大学理科大学理論物理学科に入学し、寺田寅彦が鉄郎の理科大学入学の際の保証人となり、翌年建築学科へ転入学します。

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授眼蔵図書館 現在・創建時

浄土真宗本願寺派西方寺の中にある授眼蔵図書館は、東大文学部卒、佐々木慶成住職の仏典及び一般書を地域社会のために公開する私設図書館から出発ました。後に福野町立図書館として平成3(1991)まで利用されましたが、現在非公開となっています。昭和26(1951)、日本図書館協会創立60周年記念式典において30名の功労者が表彰されますが、その中に佐々木慶成の名があります。建物は鉄郎の大学時代の設計で、大正8(1919)に竣工、同年彼は東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、逓信省経理局営繕課に勤務し、吉田芳枝と結婚して戸出物産社長吉田仁平の養嗣子となります。建物は木造平屋建で、寄棟の大屋根の両端には鴟尾が付いています。正面入り口の円柱は、ふくらみをもたせたエンタシスをとりいれており、鉄郎の東大時代の恩師伊東忠太の影響が全体的に感じられます。

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上:福野郵便局(吉田鉄郎生家)跡地 表・裏

下:「福野町電信電話発祥之地」石碑/旧福野郵便局/旧福野郵便局の離れ

吉田の生家は代々「鷹栖屋」と称していた薬種問屋で、父五藤寛平と長兄寛平が明治24(1891)から親子二代に渡って福野郵便局局長をつとめます。母・ゐくは、石動郵便局長・小沢宗八の長女で五藤家は逓信事業と非常に縁の深い家系でした。富山では銀行も、電力会社も薬種商の資本で設立されており、売薬資本が富山の近代を築いたと言えます。五藤家はその縮図と言えます。関東大震災後、吉田鉄郎は東京中央郵便局の設計に本格的に取り組みますが、その直前に木造2階建の福野郵便局局舎建て替えの設計に携わり、大正12(1923)に完成します。局舎はその後住友生命の事務所として使用され、現在既に撤去され不動産会社の管理地となっています。福野郵便局の中には明治25(1892)から電信局が設けられており、跡地には「福野町電信電話発祥之地」の石碑がたっています。石碑の裏の銅板には長兄寛平の逓信事業を中心とする福野への貢献が刻まれています。又福野郵便局の離れとして設けられた住宅部分と蔵が、隣家に曳家され、ほぼ建設当時の姿のまま梶井家によって住み続けられています。局舎も離れの住宅部分にも大きな開口部があり、同時に設計された東京中央郵便局正面デザインとのつながりが窺えます。

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山田邸増築

田邸増築は、昭和4(1929)の作品、左の写真は母屋も含んだ山田邸の全景です。山田家は、「詩百篇」と言う名の日本酒の醸造家で、福野町の町長なども務めた旧家です。吉田の住宅作品の主要な一角を占める馬場家一連の住宅、牛込邸(1928),那須山荘(1928),烏山別邸(1937),熱海別邸(1940)は、富山市岩瀬に本邸のある北陸五大北前船主のひとつ馬場家の馬場はる、子息の正治氏との縁で建てられたものです。富山市に本店のある北陸銀行の支店もいくつか、吉田は設計しています。現在牛込邸(戦後は最高裁判所長官公邸)と熱海別邸を富山に移築しようとの計画があります。東京中央郵便局解体建て替えが問題となった時、吉田の故郷にある富山テレビが「平凡なるもの~建築家吉田鉄郎物語~」を放映しています。

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# by mizuma-kj | 2016-10-30 23:36 | 吉田鉄郎 | Comments(3)